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これらの情報はフィクションのための個人的な設定資料集です。史実とは異なる場合が多々あります。

里見 義堯 (1507〜1574)

里見実堯の子。弟に勝広。子に義弘。
天文2年(1533)、父・実堯が正木時綱と共に主・里見義豊に殺害されると、時綱の子・時茂と結んで義豊を追った。
天文3年(1534)、真里谷信保らの支援を得て安房国に復帰した義豊を、北条氏と結んで犬掛合戦で敗死させた。
天文6年(1537)、真里谷信保没後に信保の子である信隆・信応の兄弟が争うようになると、足利義明と結んで信応を支持し、北条氏の支持する信隆を武蔵国金沢へ追った。
天文7年(1538)、義明を支援して第一次国府台合戦に参加するも義明が討死すると戦場を離脱して安房に逃走した。
天文8年(1539)、北条氏の上総有吉城を攻める。
天文9年(1540)、北条水軍が里見氏の本拠安房に侵入したが、撃退した。
天文10年(1541)頃、本拠を安房国稲村城から上総国久留里城に移す。
天文11年(1542)、正木時茂・時忠の兄弟に命じて勝浦城を攻略させた。
弘治2年(1556)、里見水軍を率いて三浦三崎に北条水軍を破る。
永禄3年(1560)、侵攻してきた氏康を久留里城に籠城して迎え撃ち、上杉謙信の援軍を得て撃退した。
永禄4年(1561)、上杉謙信に呼応して北条氏康を攻める。
永禄5年(1562)、剃髪入道してし家督を子・義弘に譲る。
永禄7年(1564)、太田資高・太田資正らと結んで国府台に北条綱成らと戦い、敗れて上総国を失う。
永禄10年(1567)、三船山合戦で太田氏資を討ち取るなど北条氏を撃退、上総国に勢力を回復する。
天正2年(1574)6月1日、没。


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