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これらの情報はフィクションのための個人的な設定資料集です。史実とは異なる場合が多々あります。

水谷 勝村 (1524〜1598)

水谷氏6代当主。常陸国下館城主。
結城氏の臣。結城四天王の一人。
水谷勝持の子。弟に勝俊・勝基。妻は結城政勝の娘・小藤姫(1529?〜1545)。娘は結城晴朝の妻。
天文8年(1539)、谷田開行政の補佐を受け大串合戦に初陣、武蔵吉見城に足利晴氏の臣・野渡光時を殺害した扇谷朝定に属する大串武成・重義の父子を攻め、吉見城主・武成の甥・弥重郎重元を討ち取り、晴氏から金子300両と永楽銭100貫文を与えられ兵部少輔に任じられた。
天文9年(1540)、同じく結城氏に属する多賀谷氏と仲違いして争うが、結城政勝の仲裁により和睦した。
天文13年(1544)、上野幸源を仲人に結城政勝の娘・小藤姫を娶り、政勝から「政」の一字を与えられ政村と名乗る。
天文15年(1546)、久下田城に攻め寄せた芳賀高定の臣・八木岡伊織貞家を討ち取る。
天文16年(1547)、宇都宮尚綱の命で久下田城に攻め寄せた武田治部太夫信隆を石島ケ原に撃退する。
弘治2年(1556)、政勝に従い父・勝持と共に小田氏の海老ヶ島城を攻略した。
永禄2年(1559)、結城領に侵入した小田氏治を撃退した。
永禄9年(1566)、禁裏御料所回復の功により山科言継の推挙で従五位下・伊勢守に叙任。
永禄12年(1569)頃、弟・勝俊に家督を譲って隠退した。
天正10年(1582)、徳川家康の勧めで織田信長に謁見するため上洛するが、信長が本能寺の変に倒れたため帰国した。
天正12年(1584)、笠間氏と益子氏の争いに介入して笠間氏に属する下野国田野城の羽石時政を討ち取り、田野城を占有した。
天正14年(1586)、太田資正・真壁氏幹らと田野城の所有権を争い、間もなく和睦した。
天正15年(1587)、兵を率いて宇都宮氏と対陣するが、間もなく結城晴朝の仲介により和睦した。
慶長3年(1598)6月20日、没。
勝村は早くから徳川家康に通じ、何度となく互いに鷹を贈りあうなど趣味の鷹狩りを通して親しくなったようで、天正18年(1590)には勝村と弟・勝俊が窓口となって家康の子・秀康を結城家の養子に迎えた。


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水無瀬 優 postmaster@katsura-kotonoha.sakura.ne.jp
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